第十一回研究会のお知らせです。
議論への積極的な参加を歓迎します。
事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)
日時: 2018年10月27日(土)14:00~
会場 :早稲田大学戸山キャンパス39号館5階 第5会議室
(新宿区 戸山1−24−1)
※会場予約の関係により、通常の会場とは異なりますので、ご注意ください。
報告1:伊藤 純(川村学園女子大学)
「「民族舞踊」考―戦後の演劇・教育の潮流と実践の整理から―」
昭和40年代、日本における民俗芸能の舞台化に関する議論が、研究者・舞踊家らの間で過熱し、実現には至らなかったが、国立の舞踊団設立も検討された。民間では国際芸術家センターの「日本民族舞踊団」がこの時期に活動をはじめている。一方、戦前には東宝舞踊隊が、戦後には宝塚歌劇団「日本郷土芸能研究会」(昭和33年~)が民俗芸能を取材し舞台化を行っている。また、わらび座(昭和38年~、「海つばめ」「ポプラ座」)などのいわゆる民族歌舞団による舞台が独自の制作理念に基づき制作された。民俗芸能研究にひきつければ、こうした舞踊家たちの実践に呼応するように、昭和40年代は民俗芸能の舞台化について注目された時期とみることができる。当時の舞踏家の動向と民俗芸能の舞台化については、おもに音楽史の立場から整理されている。
この時期の民俗芸能を取り巻くもう一つの流れとして、民族舞踊教育運動が注目される。これは「日本の子どもに日本の踊りを」をスローガンとし、保健体育の教員らが主導した教育実践である。教員と子供みずからが各地の民俗芸能を学ぶ教育法は日本のダンス教育に一石を投じた。学校組織を通じて瞬く間に広まったこの実践は、縁もゆかりもない地域外の人びとが民俗芸能を実践するという新たな形式にもなった。
これら諸実践は「民俗」よりも「民族」を積極的に掲げているところに特徴がみられる。実践形態はさまざまであり、そこには径庭もあるが、民俗芸能という対象は、当時の彼らにとって既存の価値観にはない魅力的で可能性に満ちた対象であった。そして、「民族」をとりまとめるキーワードでもあった。舞踊家らの活動と教育実践、民俗芸能研究。本発表では一見するとバラバラに展開したように見えるこれらの動向を、思想的源流を辿りながら共通点を探り、現在の民俗芸能を考えるうえで重要な実践のひとつとして付置させてみたい。
報告2:田邊 元(富山大学)
「撃剣家、舞う―武術家日比野雷風の近代―」
これまで日本の武道史は近世から行われてきた武術が、近代化という社会的状況の中で「武道」として行われるようになる過程を描いてきた。近代を迎えその意義が問われることになった武術は、正課教育への編入を生き残りの道とし、殺傷技法ではなく人格形成を目的においた今日的な武道へとなっていく。武道史は、戦前の武道統括団体である大日本武徳会の成立や、試合制度の確立、学校教育への編入など、制度史的な面について研究蓄積をあげてきた。ただし、その際に対象とされてきたのは剣道や柔道であり、近年は合気道や弓道の研究などもみられるようになってきたものの種目史的偏りがみられ、またそれらの種目史も中心的な組織を主とするものである。このような研究状況はあたかも近代における武術の系譜が、そのような中心的な組織により回収されていったかのような錯覚も感じさせる。しかし武術が必要とされなくなった近代、武術とそれを身に付けた武術家たちは様々な形で新時代を生き抜こうとしてきた。
本報告では武道史の研究成果を踏まえつつ、明治期に撃剣から誕生した「剣武術」を対象とし、近代を生き抜こうとした武術の一系譜を示す。剣武術は今日も行われる「剣舞」に連なるものである。これまで剣舞とは、自由民権運動の中で現れた「壮士」と呼ばれる人々の「壮士的実践」として描かれてきた。剣武術とは武術家である日比野雷風という人物により創始されたもので、壮士たちが行う剣舞と実践内容に類似する部分もあるが、彼は武術として世に喧伝した。その活動は組織的であり、その様子は「開会前已でに二千数百の入場者で」、「勇壮なる剣舞を演ずるや、ヒヤ〳〵妙々の賞声四方に起り、観覧人をして殆んど聾せしむる程なりし」と新聞記事に書かれるほどの盛り上があった。武術が必要とされず生き残りに苦心していた近代に、剣武術はいかにして社会に地位を築き、その意義を示したのかを考察していく。
0 件のコメント:
コメントを投稿