2022年3月14日月曜日

第19回研究会のお知らせ



第19回研究会を下記の通り開催いたします。
新型コロナウイルス感染拡大を鑑みオンライン形式で開催します。
多くのご参加をお待ちしております。

日時: 2022年3月26日(土)14:00~ (オンライン形式)

報告1:神田竜浩 
「大住隼人舞の創出—京田辺市大住に伝わった藺牟田神舞-」
 京都府京田辺市大住の月読神社の例祭で奉納される大住隼人舞は、古代に宮廷の警備を担った隼人が伝承してきた舞と地元では伝えられており、現在は京田辺市の無形民俗文化財の指定を受けている。
 しかし、この大住隼人舞は式内社の研究で名を馳せた神道史家志賀剛氏(1897-1990)と鹿児島県祁答院町(現薩摩川内市)藺牟田に伝わる藺牟田神舞の伝承者牧山望氏(1900-1991)が協力し、古代隼人の畿内での居住地とされた大住の地に伝えた舞であるが、実際のところは牧山氏の故郷藺牟田の地で途絶した藺牟田神舞が大住に伝えられたものであった。牧山氏は1937年に途絶した藺牟田神舞の伝承者で、戦後に藺牟田を離れ、関西での就職後も藺牟田の調査を行い『祁答院藺牟田郷誌』を刊行するなど藺牟田の民俗に多大な貢献を行いながら、藺牟田神舞の復活を目指していた。一方で、牧山氏は鹿児島に伝わる神舞(神楽)こそが隼人舞であるという信念で生涯を通じて活動を行い、志賀氏とともに鹿児島県内の隼人舞の「聖地」を発見して神舞の奉納を行うなど、志賀氏のパートナーとして重要な役割を果たした。
 牧山氏が隼人舞に神舞の起源を求めた背景には、西南戦争後に生まれた「薩摩隼人」の精神、古代に朝廷に抵抗した隼人の復権、1963年に平城京跡から発見された隼人の盾、1960年代の古代史ブーム等があったものと考えられる。こうした中で、牧山氏は1976年に藺牟田神舞を復活させるがその試みは1日限りの出来事として終わった。しかし、牧山氏が唱えた神舞=隼人舞は鹿児島県内に影響を与え、周囲の神舞もそのルーツを隼人舞に求め、鹿児島市内の隼人舞誕生の地には隼人舞として神舞を伝承する団体が生まれた。その活動の集大成が大住隼人舞であり、志賀氏が大住の地と隼人の関係の重要性について説き、牧山氏が大住の地に藺牟田神舞を伝授し、大住隼人舞が誕生した。
 今回の発表では、牧山氏の藺牟田神舞復活を含めた鹿児島県内での活動を追いながら、古代の芸能隼人舞が大住の地にどのように創出されることになったのか考えてみたい。

報告2:中野洋平
「東国の祭礼芸能と神事舞太夫」
 習合神道神事舞太夫家とは、近世において江戸浅草田原町に拠点をおいた宗教組織である。神事舞太夫頭を頭役とする彼らは習合家を自称し、幕府公認のもと家職である神事舞太夫職と梓神子職を免許することで、配下(神事舞太夫と梓神子)を得ていた。配下は関八州および甲斐、信濃、会津に散在し、神事舞太夫の人数は、近世後期の寛政年間で600名程度であった。
 習合家は、配下の神事舞太夫を①神主・宮持ち、②社役人、③平配下という三種に分類して把握していた。①は神職身分や宮社を有する者、②は寺社で何らかの役を務めるもの、③はそれ以外である。①の存在は稀で、配下のほとんどは③であり、彼らは自身が所持する旦那場において、祈祷や配札、梓神子による口寄せを生業としていた。
 寺社祭礼と直接関係していたのは②の社役人たちである。習合家の由緒では、社役人が関係する代表的な寺社祭礼が記載されている。すなわち常陸国水戸の東照宮祭礼、同国金砂山大権現の小祭礼と大祭礼、江戸浅草三社権現祭礼、下総国千葉妙見祭礼、相模国国府六所大明神祭礼、同国高麗大権現祭礼で、神事舞太夫たちは神楽や田楽を担任した。
 一方で、由緒には載らないが大小さまざまな寺社の祭礼でも神事舞太夫は芸能を担任していた。例えば相模国鎌倉の鶴岡八幡宮放生会の神幸行列では先払いの獅子舞が神事舞太夫の役務だったように、そのほとんどが獅子舞であった。どうやら習合家は、社役人のなかでも神楽や田楽を務める少数の者たちを対外的にアピールしたかったらしい。
 本発表では、習合家による家職支配の全体を俯瞰したうえで、いくつかの寺社祭礼をとりあげ、神事舞太夫が行う芸能の実際、寺社と神事舞太夫との関係すなわち役務のあり方について考察していきたい。

※ 参加される方はお申込みフォーム(https://onl.la/DSBMLsw)よりお申し込みください(3月25日締め切り)。
※ Zoomを使用します。対応するブラウザはChrome、Mozilla Firefox、Microsoft Edge、Apple Safariです。当日、ミーティング情報をお申込み時にいただいたメールアドレスにお送りします。
※ タイトルは変更される可能性があります。