2016年10月6日木曜日

第六回研究会のお知らせ

第六回研究会のお知らせです。

来聴歓迎いたします。事前に以下のアドレスまでメールをいただけると幸いです。
geinoubunka〇gmail.com(〇を@に変えてください)

日時:2016年10月29日(土)14時~
会場:早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館) 高田牧舎2階 (新宿区戸塚町1-101)




舘野太朗
 「大劇場時代の市川少女歌舞伎」
(コメンテーター:吉田弥生)
《要旨》
 市川少女歌舞伎は、太平洋戦争後に愛知県豊川市で結成された、少女だけで歌舞伎を演じる劇団である。同劇団は、1953年2月の三越劇場出演をきっかけに、東京の明治座、東横ホール、名古屋の御園座、京都の南座、大阪の四ツ橋文楽座、中座など、東西の大劇場に次々と進出を果たした。1962年に商業公演から撤退するまでのおよそ10年にわたって、少女(しかも地方出身の!)の演じる歌舞伎が、あらゆるジャンルの商業演劇に伍して大劇場で上演されていたのだ。一般的に歌舞伎は「男性の/大人の/家柄の俳優」によって演じられるものと考えられているが、市川少女歌舞伎はそれとは正反対の属性を持つ「女性の/子どもの/家柄でない俳優」によって演じられていたという点で特筆に値する。
 近年の演劇研究においては、「女役者」や「少女歌劇」などの女性の演じる演劇に注目が集まりつつあるが、市川少女歌舞伎に関しては研究対象として未開拓の部分が多い。少女歌劇と歌舞伎の関係に着目した画期的な論集である吉田弥生編著『歌舞伎と宝塚歌劇――相反する、密なる百年』(2014年、開成出版)では、同じく少女の演じる歌舞伎であった宝塚義太夫歌舞伎研究会が取り上げられていたが、残念ながら市川少女歌舞伎への言及は無かった。また、神山彰編『忘れられた演劇』(2014年、森話社)所収の藤井康生「演劇は忘れられる運命にある──戦後の演劇と劇場の変遷」では市川少女歌舞伎に関する記述があるが、同時代の観客の思い出に止まっている。学術的な論考としては、ローレン・エデルソン『ダンジュウロウズ・ガール』(Edelson, Loren. Danjuro’s Girls: Women on the Kabuki Stage. New York: Palgrave Macmillan, 2009)が現時点では唯一となっている。
 本報告では、まず、劇団員自身によって書かれた、市川升十郎『かぶき人生』(1983年、豊文堂)、市川梅香『まつば牡丹の記』(1993年、毎日新聞連載)、劇団員へのインタビューを中心に構成された黒川光弘『まぼろしの少女歌舞伎』(1984年、中日新聞連載)の記述を参照して劇団の概要を確認する。さらに、報告者の作成した市川少女歌舞伎上演年表を用いて、大劇場で上演された演目の傾向と変遷について考察を述べる。本報告を歌舞伎における、男性と女性、大人と子ども、都市と地方の関係を考えるきっかけとしたい。日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ(http://oraltheatrehistory.org/)で、報告者が取材者として関わった、劇団員の市川梅香、市川福升の聞き書きを公開している。事前に参照されたい。

高久舞(國學院大學研究開発推進機構研究開発推進センター客員研究員)
 「池田彌三郎を考える ―池田彌三郎の研究史―」
 (コメンテーター:伊藤好英)
《要旨》
 本発表では、民俗芸能研究者としての池田彌三郎の業績を確認した上で、池田の「芸能伝承論」を再考することを目的とする。
 大正3年(1914)、銀座の老舗天ぷら屋「天金」の次男として生まれた池田は、昭和6年(1931)、慶應義塾大学経済学部予科に入学するが、3年後に文学部国文科に転科して折口信夫を師事する。昭和12年(1937)に文学部国文科を卒業し、戦後、慶応大学文学部講師、助教を経て教授に就任した。
 池田が折口民俗学を継承し論を展開していたことは自明のことであるが、言い換えれば、折口民俗学の解説者でもあった。その上で、独自の芸能伝承論を展開させようという意図もうかがえる。池田は『芸能と民俗学』(岩崎美術社、昭和47年)の中で、「わたしの芸能伝承論は、単なる行動、動作と芸術とのあいだに芸能をおき、どういう条件が、あるいはどういう制約が、芸能をその位置にとどまらしめているのかをみようとするところから出発した」と述べている。芸能とはなにか、芸術とはなにか、民俗芸能とはなにかを、池田彌三郎の研究史を踏まえて今一度考えてみたい。
《参考文献》
 『池田彌三郎著作集』(全10巻、角川書店、1979〜1980年)ほか