2022年9月7日水曜日

第20回研究会のお知らせ



第20回研究会を下記の通り、オンライン形式で開催します。多くのご参加をお待ちしております。

日時: 2022年9月25日(日)14:00~(オンライン形式)
※ 参加される方はお申込みフォームよりお申し込みください(9月23日締め切り)。
※ Zoomを使用します。対応するブラウザはChrome、Mozilla Firefox、Microsoft Edge、Apple Safariです。当日、ミーティング情報をお申込み時にいただいたメールアドレスにお送りします。
※ タイトルは変更される可能性があります。


発表1 舘野太朗
民舞(民族舞踊/民俗舞踊)と民俗芸能
民舞(民族舞踊/民俗舞踊)は、日本各地の民俗芸能を基に再編した芸能で、わらび座をはじめとする「民俗歌舞団」、小中学校等の教育現場で実践されている。太平洋戦争後の日本で広まった、創作和太鼓、エイサー、よさこい系などの「新しい芸能」の源流のひとつでもある。日本民俗学、芸能史研究の分野では、民俗芸能という術語が一般的に用いられている。民舞はそれと目的や理念を異としながらも、微妙に重なる部分もある。本発表では民舞の受容と拡大を概観するとともに、民俗芸能との異同、相互の影響関係について若干の考察を行いたい。

発表2 德山海向子
新しい地域芸能 現代版組踊の再検討
―沖縄県うるま市による「肝高の阿麻和利」のフィールドから―
従来、地域で行われる芸能は、“神への奉納”、“祖先供養”を目的とした伝統芸能、民俗芸能という見方が主流であったが、近年は、それらに類されない芸能活動が展開している。同好会的団体による芸能、地域活性化のための芸能、教育現場での芸能、地域間交流の芸能、観光対象の芸能など多様な目的で実践されている。
2019年から2021年にかけて行われた「今を生きる人々と育む地域芸能の未来―「保存」から「持続可能性」への転換を志向する場の形成と人材育成」プロジェクトでは、地域の中で育まれてきた芸能を、民俗や伝統といった既存のカテゴリーで囲い込む見方を解きほぐし、これらを育む「地域」から芸能の持続可能な在り方を捉え直すための思考の枠組みとして「地域芸能」という言葉を設定している。地域で行われる芸能の基盤となる「地域」とは、人々が生存する地理的な範囲を示すだけでなく、そこに暮らす人々の間、人々と土地、人々とモノ、人々と出来事の間で織り上げられていく関係的な概念と捉えられる。そのような流動的な地域で行われる芸能を「地域芸能」として捉えることは、当事者たちに寄り添いながら実践を検討し、その課題に対する有効な手立てを見出せると考えられる。
現在、全国的に取組まれている「現代版組踊」は、2000年初演の「肝高の阿麻和利」を機に定着した。地域の歴史や伝統芸能を組込んだオリジナルの舞台を、中高生を中心とした地元の子供たちが主体となって運営する舞台芸能である。地域に根差した舞台作りを通して青少年の居場所作りや人材育成、地域おこしを目的としている。
本稿では、「現代版組踊」の先駆けとなった沖縄県旧勝連町(現うるま市)による「肝高の阿麻和利」について取上げ、当該地域における活動の展開と今後の課題について整理しつつ、「現代版組踊」という地域芸能の特性を挙げる。
1999年、旧勝連町教育委員会は、地域の無気力な若者たちが意欲を持てる文化活動の場を提供することと、町の意識改革を目的に、中学生による舞台作りを企画した。小浜島出身の南島詩人・平田大一氏を演出家に招き、創作されたのが「肝高の阿麻和利」である。
舞台の題材は、町のシンボルであった勝連城跡の象徴的な歴史に焦点があてられた。琉球王国時代、勝連地域を繁栄に導いたとされる勝連城按司・阿麻和利は、沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」には英雄と詠われているが、王国編纂の正史では王府に反抗した逆臣と記されており、沖縄の古典芸能・組踊「二童敵討」では敵役として登場する。そこで、組踊で流布された阿麻和利悪人像の歴史観を乗り越えるべく、当初は、「二童敵討」に対抗する新作組踊の創作が発案されたが、演者である素人の子供たちが古典芸能を実践することは困難であったため、“現代チックな組踊”という解釈で、組踊の様式を現代風にアレンジした舞台が誕生したのである。楽曲には大太鼓や三線を用いたり、ダンスの要所に空手や琉舞の所作を振りつけたり、勝連地域の伝統芸能を取入れたりすることで、地域の伝統芸能を活かした演出が施されている。
一回きりの上演予定であったものの、初公演後に演じた中学生から再演の希望がされ、舞台活動は継続された。保護者を中心に支援団体が組織され、行政の手を離れてからも自立的な運営基盤を築き、市町村合併の壁を乗り越えながら、戦略的に舞台公演を行い、実績を積んでいる。
現代版組踊は、子供たちに故郷の誇りと魅力を自発的に発見させる生きた教材として、また、埋没していた地域の歴史を浮き彫りにし、伝統文化の良さを再認識させることで、地域における新しい価値創出の試みとなっている。「青少年の人材育成」、「地域活性化」の手法として評価を受け、他地域でも同様の取組みを志向した結果、沖縄県内外の17地域でも類似の舞台活動が誕生した。現在、異なる地域で各々の現代版組踊が演じられている一方で、全ての団体は「ダイナミック琉球」という沖縄の伝統芸能のエッセンスを含んだ曲のパフォーマンスを共有している。それにより、共通の歴史実践に従事しているという連帯感が生まれ、現代版組踊を通した各地域間交流への足場を築かれている。現代版組踊は、どの地域でも実践できる普遍性をもちながら、地域間のコネクションを生み出している。
「肝高の阿麻和利」は、今年で22年目に入る。現在うるま市は、当舞台を産業コンテンツ化することでイベント企画や修学旅行の誘致を図り、観光による地域活性化を構想している。こうした動向は、これまで舞台活動を通して育った人材の受け皿が創出され、「感動産業」の実現へと期待が寄せられている一方で、うるま市内部の認知度の低さが課題として浮かび上がってきた。
また、現代版組踊取組み自体の今後の継続性を考える上では、採算のとれる経営基盤の強化は必須であり、舞台活動全体のモチベーション維持は当初から変わらない重要な観点である。地域での舞台の在り方は変化するが、力強い継承のためには、既存の伝統芸能に習って、活動主体が本来の目的を見失わずにすむよう不可変の基軸を見出す必要もある。
【参考文献】
公立大学法人沖縄県立芸術大学『地域芸能と歩む「今を生きる人々と育む地域芸能の未来―「保存」から「持続可能性」の転換を志向する場の形成と人材育成」事業報告書』2022
德山海向子『沖縄の芸能文化における「現代版組踊 肝高の阿麻和利」の位置づけと今後の展望について』2021
本橋哲也『演劇としての歴史/歴史としての演劇:「パブリック・ヒストリー」と「現代版組踊」』2021
沖縄国際大学公開講座委員会『沖縄芸能の可能性』2005
狩俣恵一『沖縄の地域社会と芸能』コミュニティ政策学会2021
現代版組踊推進協議会ホームページ 現代版組踊推進協議会 (gendaibankumiodori.com)
正徳大学文学部文学科『民俗文化の継承におけるコストとモチベーションに関する基礎的研究』2019

2022年3月14日月曜日

第19回研究会のお知らせ



第19回研究会を下記の通り開催いたします。
新型コロナウイルス感染拡大を鑑みオンライン形式で開催します。
多くのご参加をお待ちしております。

日時: 2022年3月26日(土)14:00~ (オンライン形式)

報告1:神田竜浩 
「大住隼人舞の創出—京田辺市大住に伝わった藺牟田神舞-」
 京都府京田辺市大住の月読神社の例祭で奉納される大住隼人舞は、古代に宮廷の警備を担った隼人が伝承してきた舞と地元では伝えられており、現在は京田辺市の無形民俗文化財の指定を受けている。
 しかし、この大住隼人舞は式内社の研究で名を馳せた神道史家志賀剛氏(1897-1990)と鹿児島県祁答院町(現薩摩川内市)藺牟田に伝わる藺牟田神舞の伝承者牧山望氏(1900-1991)が協力し、古代隼人の畿内での居住地とされた大住の地に伝えた舞であるが、実際のところは牧山氏の故郷藺牟田の地で途絶した藺牟田神舞が大住に伝えられたものであった。牧山氏は1937年に途絶した藺牟田神舞の伝承者で、戦後に藺牟田を離れ、関西での就職後も藺牟田の調査を行い『祁答院藺牟田郷誌』を刊行するなど藺牟田の民俗に多大な貢献を行いながら、藺牟田神舞の復活を目指していた。一方で、牧山氏は鹿児島に伝わる神舞(神楽)こそが隼人舞であるという信念で生涯を通じて活動を行い、志賀氏とともに鹿児島県内の隼人舞の「聖地」を発見して神舞の奉納を行うなど、志賀氏のパートナーとして重要な役割を果たした。
 牧山氏が隼人舞に神舞の起源を求めた背景には、西南戦争後に生まれた「薩摩隼人」の精神、古代に朝廷に抵抗した隼人の復権、1963年に平城京跡から発見された隼人の盾、1960年代の古代史ブーム等があったものと考えられる。こうした中で、牧山氏は1976年に藺牟田神舞を復活させるがその試みは1日限りの出来事として終わった。しかし、牧山氏が唱えた神舞=隼人舞は鹿児島県内に影響を与え、周囲の神舞もそのルーツを隼人舞に求め、鹿児島市内の隼人舞誕生の地には隼人舞として神舞を伝承する団体が生まれた。その活動の集大成が大住隼人舞であり、志賀氏が大住の地と隼人の関係の重要性について説き、牧山氏が大住の地に藺牟田神舞を伝授し、大住隼人舞が誕生した。
 今回の発表では、牧山氏の藺牟田神舞復活を含めた鹿児島県内での活動を追いながら、古代の芸能隼人舞が大住の地にどのように創出されることになったのか考えてみたい。

報告2:中野洋平
「東国の祭礼芸能と神事舞太夫」
 習合神道神事舞太夫家とは、近世において江戸浅草田原町に拠点をおいた宗教組織である。神事舞太夫頭を頭役とする彼らは習合家を自称し、幕府公認のもと家職である神事舞太夫職と梓神子職を免許することで、配下(神事舞太夫と梓神子)を得ていた。配下は関八州および甲斐、信濃、会津に散在し、神事舞太夫の人数は、近世後期の寛政年間で600名程度であった。
 習合家は、配下の神事舞太夫を①神主・宮持ち、②社役人、③平配下という三種に分類して把握していた。①は神職身分や宮社を有する者、②は寺社で何らかの役を務めるもの、③はそれ以外である。①の存在は稀で、配下のほとんどは③であり、彼らは自身が所持する旦那場において、祈祷や配札、梓神子による口寄せを生業としていた。
 寺社祭礼と直接関係していたのは②の社役人たちである。習合家の由緒では、社役人が関係する代表的な寺社祭礼が記載されている。すなわち常陸国水戸の東照宮祭礼、同国金砂山大権現の小祭礼と大祭礼、江戸浅草三社権現祭礼、下総国千葉妙見祭礼、相模国国府六所大明神祭礼、同国高麗大権現祭礼で、神事舞太夫たちは神楽や田楽を担任した。
 一方で、由緒には載らないが大小さまざまな寺社の祭礼でも神事舞太夫は芸能を担任していた。例えば相模国鎌倉の鶴岡八幡宮放生会の神幸行列では先払いの獅子舞が神事舞太夫の役務だったように、そのほとんどが獅子舞であった。どうやら習合家は、社役人のなかでも神楽や田楽を務める少数の者たちを対外的にアピールしたかったらしい。
 本発表では、習合家による家職支配の全体を俯瞰したうえで、いくつかの寺社祭礼をとりあげ、神事舞太夫が行う芸能の実際、寺社と神事舞太夫との関係すなわち役務のあり方について考察していきたい。

※ 参加される方はお申込みフォーム(https://onl.la/DSBMLsw)よりお申し込みください(3月25日締め切り)。
※ Zoomを使用します。対応するブラウザはChrome、Mozilla Firefox、Microsoft Edge、Apple Safariです。当日、ミーティング情報をお申込み時にいただいたメールアドレスにお送りします。
※ タイトルは変更される可能性があります。