第一回研究会のお知らせです。
来聴歓迎いたします。
日時:2015年5月24日(日)14時00分~
会場:早稲田大学人間総合研究センター分室(27-8号館)
(東京都新宿区戸塚町1-101 高田牧舎2F)
【発表1】
「“ページェント”から“郷土舞踊と民謡の会”へ―大正時代の小寺融吉―」
舘野 太朗
1925年10月、日本青年館の開館記念行事の出し物のひとつとして、「郷土舞踊と民謡」が上演された。この催しは、現在の「全国民俗芸能大会」等の民俗藝能公演の先駆けであるとともに、民俗藝能研究が進展するきっかけにもなったと考えられている。当初、開館記念行事として、「ページェント」と「郷土舞踊と民謡」の二案が検討されていたが、小寺融吉(1895-1945)の提案によって、後者の採用されたことはあまり注目されてこなかった。
「ページェント」とは、坪内逍遥(1859-1935)が、1920年代に日本へ近代パジェントを紹介した際に用いたことばである。逍遥は、理論と実践の両面でページェントの定着を図った。小寺は、逍遥の弟子として、それを引き継いだ。著書の『近代舞踊史論』でページェントを論じるとともに、1922年7月には増上寺で自作のページェント『お竹大日如来』の上演も経験している。その小寺が、開館記念行事でページェントを退けたのには、「郷土舞踊と民謡」にページェントの本質を見出したからではないだろうか。逍遥は、ページェントを「民衆自身のために民衆自身が作りもし演じもし経営もする所の劇的演藝」と定義し、彼の提唱するページェントの先行形態として、祭礼や民俗藝能を例示していた。逍遥自身が民俗藝能に関与することはなかったが、小寺を中心とする「早稲田派」の人びとを介して、民俗藝能の公開に少なくない影響を与えたのではないか。本発表では、逍遥と民俗藝能の関係を、大正時代の小寺融吉を手掛かりとして検討したい。
【発表2】
「近世村落に継承された武の近・現代史」
田邊 元(早稲田大学スポーツ科学学術院 助手)
本報告では、近世村落で継承されてきた武術伝承が、近代を経て現代に至るまでに、どのように伝承されてきたかを明らかにしていく。
今日、日本武道は国内においては学校体育で必修科目となり、また国外においても多くの実践者を持っていることが知られる。日本を代表する文化として取り扱われる武道であるが、学術的関心の対象として、武道研究領域において多く研究が行われてきた。特に、日本武道の人文学的研究は、主として歴史学的な観点からなされる武道史(武術史)と、思想史・哲学的な観点からなされる武道論の2つにおいて豊富な知見の蓄積をしてきた。その背景には、いずれの観点においても利用できる、多くの史・資料が存在しているためといえる。
一方で、こうした背景を持つ研究史は武士が伝承した流派武術の研究に偏っていることが指摘されている[榎本・和田 1995]。江戸時代の武術史を研究する榎本鐘司は武士以外の身分が行っていた流派武術を「農民武術」と呼称し、これらについても武道研究において取り扱う必要性を主張している。我々がこんにち目にする競技武道は農民武術を一起源としているためである。しかし現在、農民武術の研究は進展していない。加えて述べれば、江戸時代の身分制度における農民武術が、その後、明治時代となり現在に至るまでにどのように継承されてきたのか、この点についても研究はされていない。
以上のような背景に対して、報告者は流派武術由来といわれる民俗芸能を対象として扱うことで、研究状況の打破を目指している。本報告では、まず前述のような民俗芸能が、なぜ武道研究の対象とされて来なかったかを示す。そして、対象とすることで描かれる、農民武術の近・現代史を示していく。