2021年9月30日木曜日

第18回研究会のお知らせ




第18回研究会を下記の通り開催いたします。

新型コロナウイルス感染拡大を鑑みオンライン形式で開催します。

多くのご参加をお待ちしております。

日時: 2021年10月30日(土)14:00~ (オンライン形式)

報告1: 矢嶋正幸 
「 神代神楽と面神楽―遊芸人鑑札制度が作った神楽の分類―」
 関東地方に分布するいわゆる出雲流の神楽は、太々神楽・里神楽・神代神楽・面神楽といった様々な名前で呼ばれている。現在は、こうした呼称の違いを意識することは殆どない。埼玉県秩父地域では、保存会名に神代神楽を冠していても、「デエデエ=太々」と呼称しているところも多い。東秩父村のものは「神代里神楽」と、合体した名前で呼ばれている。また、面神楽を冠するものには、神奈川県三浦半島、海南神社の面神楽があるが、地元では神代神楽の一種とされている。
 ところが、戦前の埼玉県神職会が編纂した調査報告書『埼玉の神代神楽』では、「本県に伝来せる神代神楽は、其の起源明白ならずと雖も、古来宮中に伝へられたるを単に神楽と称へ、之れに対して地方に伝へたるを里神楽と称す。然れども今日の所謂里神楽なるものは、頗る俗化せるものにして、祭典の賑ひに余興として行はる〵に過きす、故に之を通俗面神楽と称し、神社付属のものは神代神楽、又は太々神楽と称して区別し居れり」と、呼称について明確な区別をつけている。
 ここで通俗面神楽とされているのは、遊芸人鑑札を請けた神楽師が余興として行うものであって、神社付属の神楽師が行うものとは異なるとされている。埼玉県では、明治15年の遊芸人取締規則の発布以降、一部の神楽師は鑑札を請け遊芸人として神楽をするようになっていた。
 なぜ、神楽師が、神社付属のものと遊芸人のものとに分かれることになったのかを明治期の埼玉県の資料を使いながら見ていきたい。また、こうした分類が現在まで伝わる神楽にどのような影響を与えたのかも併せて考えていきたい。

参考文献:
『三浦市民俗シリーズⅦ 海南神社の面神楽 上巻』三浦市教育委員会 1991年
『埼玉県特殊神事 第三輯 埼玉の神代神楽』埼玉県神職会 年不詳

報告2:大石泰夫
「拙論「天下御免の三番叟」とは何だったのか―「現場から立ち上がる議論」の再考―」
 1990年から1991年の2年間にわたって行われた有志研究会「第一民俗芸能学会」(以下、「第一」)のスタートは、民俗芸能についての先行研究者と先行研究に対する評価の議論であった。具体的には、牛尾三千夫(橋本裕之)、早川孝太郎(上野誠)、永田衡吉(笹原亮二)、本田安次(松尾恒一)、文化人類学における儀礼研究(福島真人)、茂木栄「まつり伝承の持続と変化―南信濃遠山の場合」(小林康正)などであった。
 それとともに、「民俗芸能」についての認識論を踏まえた議論(民俗芸能とは一般的には言われないものから立ち上がる民俗芸能研究に通じる議論)が展開された。例を挙げれば、ストリップ、浪花節、琵琶法師の語り、ミュージカルなどであった。
 そして、当時学界でしばしば指摘されていた調査論についての議論を背景にした、伝承現場から立ち上がる議論である。高度成長期が終わり、バブル経済が自治体に多くの税収をもたらして、自治体は競って大規模な自治体史編さん事業を始める。民俗学については、この期に積極的に自治体史に取り込まれた分野となった。そして、そのことによって、多くの大学院生が臨時調査員として民俗部会の調査事業に参画することになる。現在の50~75歳くらいの民俗学の研究職にある(あった)人で、自治体史の編さん事業に無縁であった人は、ほとんどないといってよいだろう。その自治体史の編さん事業のあり方について、指摘されたのが「項目調査」に対する批判であった。また、「昔はこうだった」というオーラル伝承から立ち上げようとする「歴史」に対する批判であった。
 そうした議論を「第一」でも扱っており、伝承の現場から立ち上がる議論についての研究が取り上げられた。その一つとして「天下御免の三番叟」が出されることになる。この論文において提示されたものをまとめると、次のようになろうか。
 1.民俗誌の記述者はどのようにして民俗学的認識を立ち上げ記述しているのかを提示しなければ、記述が正確に伝わらないのではないかということ。
 2.世代ごとの三番叟とその伝承に対する認識の差を提示すること。
 3.三番叟伝承者と非三番叟伝承者の認識の違いを提示すること。
 4.地方のムラ組織の中で、若者が三番叟を伝承する意味を描き出すこと。
この論文は後に「天下御免の三番叟、その後」が書かれて、間違った認識の訂正を含めて見直されることになる。この論文において描き出したものは、従来民俗学や民俗芸能を扱う論文とあまりにも違うものとなったので、ほとんど引用されず、批判もされずに今日に至っている。
 しかし、改めて振り返ってみれば私がもっとも目指したかったのは、「研究者は民俗伝承にどう対峙すべきか」という研究者の立ち位置の問題だったのかも知れない。それをこの論文では「ナマの記述」と表現していた。そしてそのことが通常の研究者と異なるものであることが、先日の國學院大學伝承文化学会での議論の、それぞれの発題者の立ち位置に象徴的に現れているように思われる
 今回の発表では、研究者の立ち位置と「ナマの記述」についての卑見を述べ、参加のみなさんから是非ともご意見を伺いたいと思う。

※参加される方はお申込みフォーム(https://bit.ly/3hdVDzP)よりお申し込みください(10月28日締め切り)。
※Zoomを使用します。対応するブラウザはChrome、Mozilla Firefox、Microsoft Edge、Apple Safariです。当日、ミーティング情報をお申込み時にいただいたメールアドレスにお送りします。
※タイトルは変更される可能性があります。

2021年4月22日木曜日

第17回研究会のお知らせ


第17回研究会を下記の通り開催いたします。

ふるってご参加ください。

日時: 2021年6月19日(土)14:00~ (オンライン形式)

※参加される方はお申込みフォームよりお申し込みください(6月16日締め切り)。

※Zoomを使用します。対応するブラウザはChrome、Mozilla Firefox、Microsoft Edge、Apple Safariです。当日、ミーティング情報をお申込み時にいただいたメールアドレスにお送りします。

報告1:伊藤純(川村学園女子大学)

「「伝承者」と言われて・・・―芸能研究におけるオートエスノグラフィ分析」

 発表者は毎年8⽉に故郷の神社のお祭りで獅⼦舞を奉納し続けている。かれこれ20年になるかと思う。そのためか、しばしば「獅⼦舞の伝承者」として紹介されることがある。こうした「伝承者」というラベルを貼られるたびに、その状況を受け⼊れながらも、「伝承者」という⾔葉に違和感を覚え、時には地元の仲間に対する後ろめたさを感じていた。発表者がすすんで「伝承者」と名乗ることはほとんどない。 

 俵⽊悟は「「伝承者」とか「担い⼿」というような⾔葉を、ある⺠俗芸能を担う複数の、様々な⽴場の⼈々を⼗把⼀からげにして、違和感を感じることもなく使い続けてきたという点で、⺠俗芸能研究の右に出るものはないのではないか。」とこの⾔葉に疑問を呈している[俵⽊2009]。その指摘より10余年経った現在もさして状況は変わらない。むしろ、東⽇本⼤震災やコロナ禍としばしばセットで取り上げられる「⺠俗芸能の危機」とあいまって「伝承者」という⾔葉の存在がますます⼤きくなっている。

 そこで本発表では⺠俗芸能に関わる⼈々を「伝承者」と⾔い表すことによって「顕在化されるもの/潜在化されるもの」について考察する。そのために「伝承者」と⾔われ続けて久しい発表者じしんのこれまでの経験を社会的⽂脈に置き直し、分析する。こうした⽅法はオートエスノグラフィという⽅法にあたるが、本発表では「調査者が⾃分⾃⾝を研究対象とし、⾃分の主観的な経験を表現しながら、それを⾃⼰再帰的に考察する⼿法」として捉えておく[井本2013]。実演者が少なくない芸能研究において、⾃⼰の経験を考察の対象とすることの意義も同時に⽰したい。

※参考文献

井本由紀2013「オートエスノグラフィー」『現代エスノグラフィー―新しいフィールドワークの理論と実践』新曜社

俵木悟2009「民俗芸能の「現在」から何を学ぶか」『現代民俗学研究』1



報告2:鈴木昂太(東京文化財研究所 研究補佐員)

「 芸態研究の可能性―岩手県北上市和賀大乗神楽の事例に基づいて―」  

 芸能文化研究会第14回研究会では、久保田裕道氏が「芸態研究のススメ」と題した発表をされた。芸態の分析方法をさまざまな実例を挙げて説明された久保田氏の問題提起は、今後の民俗芸能研究の在り方を考えるうえでも重要なものである。そこで今回の発表では、筆者なりの芸態研究の方法(可能性)を提示することを目的としたい。

 芸態研究においては、「芸態」という言葉の定義を確認するとともに、以下の二つの問題が考えられる必要がある。

 一つ目は、演ぜられている芸能を、どのように把握(理解)し、芸態として取り出すかという認識論的な課題である。一つの芸能は、舞(身体表現)や奏楽などさまざまな要素から成り立っている。そのうちの何を、どの視点から把握すれば、芸能を理解したことになるのだろうか。

 二つ目は、把握した芸態(データ)を、どの視点から分析し、論として広げていくかという問題である。筆者は、ある一つの芸能の芸態を理解した後には、他の芸能との比較や論者それぞれの観点から考察を行うなどして、より多くの研究者の関心を集めるかたちで芸態(データ)を提示しなければならないと考えている。こうした「翻訳」の作業は、芸態研究を実りあるものとするためには必須である。ただの芸態分析に留まらず、芸態のあり方から立ち上げた論を広げる分析方法には、どのような視点があるのだろうか。

 以上の課題を、岩手県北上市煤孫地区に伝承される和賀大乗神楽の事例に基づいて検討していきたい。その際には、神楽の伝承者が自身の舞を説明する際に語る「手次」という概念に注目して論じていく。


2021年2月26日金曜日

第16回研究会のお知らせ




第16回研究会を下記の通り開催いたします。

新型コロナウイルス感染拡大を鑑みオンライン形式で開催します。

多くのご参加をお待ちしております。


日時: 2021年3月20日(土)14:00~ (オンライン形式)

報告1: 荒木真歩 ( 神戸大学大学院 )

薩摩硫黄島の民俗芸能の現在ー三島村の民俗・人類学的研究史をふまえてー

 硫黄島とは、鹿児島県鹿児島郡三島村に属する離島であり、両隣にある竹島・黒島とあわせて三島村を構成している。硫黄島は周囲145㎞、面積1165㎡の小島でフェリーでは鹿児島港から約4時間かかる。人口は約120人で、島には中学までしかなく高校進学と共に鹿児島に出るのをきっかけに帰村する人は少なく、移住者は一定数いるものの過疎化・高齢化が進んでいる。

 一方で硫黄島は俊寛伝説があることから歌舞伎役者の故・中村勘三郎が硫黄島を舞台に俊寛を演じたり、西アフリカの太鼓ジャンベが持ち込まれアジアで初めて開校したジャンベスクールによる国際ワークショップがあったり、2018年には「来訪神」を構成する一つとして、八朔の行事に登場するメンドンがユネスコの無形文化遺産の代表一覧に記載されるなど、国内外の様々な点から注目されている。

 本発表では対外的に複数の点でのみ知られてきた硫黄島を中心にまずは三島村の歴史的背景を押さえ、民俗学や人類学の分野で三島村がどのように調査されてきたのかを整理する。その上で芸能を通して硫黄島の現在を紹介する。
 三島村の歴史はあまり知られていないが、三島村という村が誕生したのは1946年で、今年は村立75年目を迎える。三島村はそれまで十島村(としまむら)と共に、十島村(じっとうそん)の名で同じ行政下にあった。終戦と同時に北緯30度以南の下七島(現十島村)が米軍の行政下になったことをきっかけに三島村として分村した。
 調査は1934年5月におこわなれた、渋沢敬三を中心とするアチックミューゼアム調査「薩南十島調査団」の影響が大きい。この調査に参加していた早川孝太郎の三島村(特に黒島)の調査がなければその後の民俗学的調査の発展はなかったと言っても過言ではない。1980年代になると社会学・人類学的調査が増え、年齢階梯制、親族関係、そして伝統的諸慣行の調査が進んだ。
 芸能や伝統行事に関しては、八朔太鼓踊りとメンドン、ハシタマツ(柱松)と盆踊り、九月踊りを対象に民俗学者らによって文化財調査として内容の報告がなされたり、歌詞の検討、鹿児島県下の芸能として分布研究がなされてきた。しかしこれまでの社会学・人類学的な研究とは関連付けて言及されてこなかった。ゆえに発表の最後には現在の芸能の実践をとおして島の社会的状況を描き出す。

報告2:髙久舞(國學院大學兼任講師)

八王子市小泉家を中心とした芸能の系譜とネットワーク

 民俗学における「伝承者」とは「ある社会の人々として集団的にとらえられることが、伝承者を論じるときの前提」として考えられ、これは民俗芸能の伝承者においても同様であり、個ではなく集団であること、また専業者ではなく非専業者がその対象であった。しかし実際に芸能が伝承される場では、集団を形成している個々人は一人ずつ個性のある人物であり、特にその芸能を次世代、他空間へ伝承する際には少なからずある特定の個人が関わっている。 
 1990年代以降、民俗芸能研究は「現場主義」「実践主義」が研究の主体となっていく。研究の潮流が変わる文脈の中で改めて注目されたのが、民俗芸能が伝承される上で存在する「個」であった。「異常人物」や「独創的かつ個性的な人物」に対する言及(橋本2006、2015)や、「民俗社会と演技者個人の〈知〉や個性」(大石2007)や人々の関係性と日常に注目する(松尾2011)など、各研究者が民俗芸能の伝承における「個」について関心を寄せているが、これらはいずれも単発的であり、民俗芸能のパーソナル研究としてまとまったものはない。
 筆者の考える民俗芸能のパーソナル研究とは、伝承者である個々が様々な立場から関係性を見出し、その関係性の中で芸能を伝承していくという考えを基点としている。その中には「異常人物」や「独創的かつ個性的な人物」も含まれているが、この「異常人物」を受容するか否かも伝承における一つのあり方として考えるべきだろう。筆者はこれまで拙著(高久2017)、拙稿(高久2018)のなかで芸能伝承における個の存在について言及しているが、これに対して俵木は「個性的なものと集合的・共同的なものに対立させるのではなく、両者をともに視野に収め、その絡み合いを解き明かす方向性」(俵木2019)と指摘する。
 本発表では俵木の指摘する個と集団の絡み合いを解き明かす方向性を見出すための端緒として、八王子の神楽師である小泉家の人と芸の痕跡を追いながら、彼らが与えた影響と役割や影響を与えられた側との関係性について明らかにすることを目的とする。

参考文献
橋本裕之2006『民俗芸能研究という神話』森話社
橋本裕之2015『芸能的思考』森話社
大石泰夫2007『芸能の〈伝承現場〉論』ひつじ書房
松尾恒一2011「柳田国男と芸能研究、柳田国男の芸能研究」小池淳一編『国立歴史民俗博物館研究報告 第165集〔共同研究〕日本における民俗研究の形成と発展に関する基礎研究』国立歴史民俗博物館
高久舞2017『芸能伝承論-伝統芸能・民俗芸能の演者と系譜』岩田書院
高久舞2018「伝承キーパーソンと祭囃子-東京都大田区、神奈川県川崎市を中心に-」『國學院雑誌』第118巻第4号
俵木悟2019「民俗芸能を開く/拓く」『日本民俗学』300号 日本民俗学会

※参加される方はお申込みフォームよりお申し込みください(3月19日締め切り)。

※Zoomを使用します。